シン・ゴジラ感想 「当事者の 当事者による 当事者のための映画」

とにかく素晴らしい映画でした。

4DXという事もあり、身体の全てを使って映画を見た、というのも素晴らしさの理由の1つですが、
映画そのものの、映像やストーリーやキャスティング等、内容全てが4DXに負けていません。入口はシンプルながらも蓋を開けたらかなり濃い映画となっています。

4DXの演出すらも最後は凌駕して、心の底すら映画の世界の中に引っ張り出され、色々考えさせられました。

五感に加えて六感(!)で感じて、観た経験そのものを持ち帰れる映画と言えましょう。
(凄く誉める記事を書いてしまっていますが、今残っている感動はこれくらい書かないと足りません)

ストーリーは極力、99%書かず、ネタバ レ無しで感想を書いていきたいと思っています。
ただ、最低限の説明や、私の解釈から映画の感じが何となく分かってしまい、残り1%が30%くらいに感じてしまう方もいるかもしれません。
本当に事前情報をシャットアウトして純粋な気持ちで観たい方は、以下の感想は観た後に読まれた方がいいかもしれません。
(実際ストーリーは極力避けたのですが、シーンはいくつか紹介しているので、映画全体で言うと99%描かず、というのは保証できません汗 そもそも数値化自体
難しいですが....)

では、行きます。

最低限映画の流れとして言える事は

ゴジラが日本に現る
②政府を中心に策を練る
③世界を巻き込みながら(または様々な外国の思惑に日本も巻き込まれながら)、ゴジラとの熾烈な戦いが繰り広げられる

という事ですね。

政府の初期対応からの流れが、(現実の)日本を完全に変えてしまった、あの出来事への対応を想起させたり、
ゴジラが何故誕生してしまったか、日本は、世界は、ゴジラにどう向き合えばいいのか、といった根源的なところから、
戦争等、実際の歴史や現在の問題を様々に絡めながら、絶妙に話は展 開していきます。

ゴジラという現実にはいない生物を除けば、日本の政治から社会から外交から、化学等のあらゆる専門分野の知識に至るまで、
とにかくリアルに迫った、現実まみれの映画と言えましょう。

最初に4DXで五感を奪われ、話が展開するうちに、こだわり抜いた内容のリアルさに頭脳が奪われ、一体観ているこっちはどうすればいいの、
という状態になってしまいます。(笑)

しかし映画はこちらの五感と頭脳を引きずり込んでなお、終わりません。
更に奪われ、そしてそれでも残っている何かに気付くはずです。

当たり前ですが、日本には色々な人がいます。性別も性格も考え方も見た目も、今では国 籍が違う事も珍しくない。
日本という広い単位で見なくてもいい。政府の中でも違うし、街とか学校とか会社とか、身近なレベルで見ても、色々な人がいます。
色々な人がいるように見えなくて、全てが同じに見えてしまう事もありますが、それは多様な人や現実が隠されてしまい、裏で密かに悲しみ
を負っている人がいる、という事なのかもしれません。
視野を思いっきり広くしてみて、世界に目を向ければ、更に様々な異なる国があり、更に更に様々な人々がいます。

映画の中の世界ではゴジラですが、映画に絡めて大きな災害や、それに伴う科学の暴走、戦争の危機等に日本、もしくは世界が直面した時、
様々な人達はどのように変わり、またはどの ように変わる事なく、対応できるでしょうか。

そんな究極のシミュレーションを徹底的にリアルに行い、人類が破滅しかけても前を向けるかどうか、庵野監督は全身を使った思考実験に、
私達観る側にも協力してもらう形で、挑んだのかもしれません。

私が今回映画を観た中で、どうしても心の奥に留まり続け、外す事のできないキーワードがあります。

「当事者」

人間は日々様々な出来事に直面して、大きな社会や経済の流れに左右される事もありますが、
時に何かの当事者である、という事をさっぱり忘れてしまう事があります。
シン・ゴジラ」の政府の人々の中でも、国を守るギリギリの現場に近い人や、 残念ながらそうではない人等、様々な立場の人がいます。
政府の人の当事者感覚の無さというのは、私達も数年前の出来事等で思い出す部分もあるかもしれません。

しかしそれを批判し、失笑すれば済む話では無い。
惨事が起きても事の大きさに気付かず、惨事の動画をネット配信して楽しむ人がいたり、現実では無くスマートフォンを見続けている人が映画の中で
描かれていますが、同じ当事者感覚の無さと言えるでしょう。

映画の途中でアメリカの日系人に突き付けられるある質問が、大変印象に残ります。

しかし話が進むに連れて、政府の人達の誰もが「当事者の顔」になっていき、決断の1つ1つの重みが増していきます。
一般人はスマートフォンで情報共有を始め、(掛け声だけではよく内容が分かりませんでしたが)デモが行われるシーンもあります。
自衛隊等の現場の人々の描かれ方も素晴らしい、最後には意外な組織が協力したりします。これらも現実の日本に生きた我々(つまり観る側)が、
記憶を共有している出来事と言えるでしょう。

しかし、庵野監督はそれでは終わらず、世界の当事者感覚の鋭さというものを完璧に描き切っています。

ゴジラの最初の襲撃の直後に流れた本当に何気ないニュース。
「海外の調査団が来た」

諸外国が世界の現実と自国の利益のバランスを踏まえ、冷酷なまでに適切に出していく決断や決議。

ゴジラによる危機が想像以上だと知った外国の人々の決断の素早さと気持ちの暖かさ。

経済危機や紛争、テロ等、諸外国では痛みとともに、当事者にならざるを得なかった出来事がたくさんあります。
(アメリカはある意味、世界中で「当事者」をしている、と言えるでしょう。問題が色々とありますが)
そうした現実を踏まえたであろう、諸外国の政府や人々の振り幅を持った動きもしっかり描かれています。

では私は「シン・ゴジラでは現実世界にも通じる、日本人の当事者意識や対応力の無さと、諸外国の対応力の高さが描かれた」
というような、一方的な感想を持ったのか。
決してそうではありません。一方的に何かを批判する ような感想では、私自身の「当事者意識」も疑わしくなってしまいます。

映画では、日本の戦争や防衛も絡められていたので敢えて例に出しますが、戦後71年、日本が平和を享受している間に、沖縄では何が起きていたか、
そして今、何が起きているか、日本人で正確に知り、考えている人はどれくらいいるでしょうか。
また、日本の平和と世界の混沌の微妙なバランスの中で、日本をどう守るか、または日本や世界をどう平和にしていくか、最前線で守り、または動き、考え
続けた人々について、私達はどれくらいの事を知っているでしょうか。

色々な立場の違いはあれど、シン・ゴジラゴジラという大惨事が日本にもたらされる想定の元、私自身 が考え続けていた「当事者とは何か」「一体今、私自身は
何の当事者なのか」「周囲に隠れて傷ついている当事者がいるのではないか」という問いをもう一度、自らに突き付けるきっかけになりました。

シン・ゴジラは日本の元々当事者にならざるを得なかった人とそうでない人が描かれ、そうでない人が当事者として成長し、更には世界の人々が当事者になり、
更には「隠されていた痛み」の存在も明らかになる、そういう流れを持っているように、私には思えてなりません。

「....当事者」
「当事者」
「当事者....」

私はこれまで上の言葉を使い過ぎました。それでも私は感想を書く上で「当事者」という言葉を使い続けます 。
当事者がいて、私達自身も当事者である事を知り、それが広がって....シン・ゴジラは人々の営みが広がり、深められながら、1つの「真実」に迫る映画ではないでしょうか。

映画を観た「真実」はそれぞれの人々の胸の中にある、なんて格好つけた事を書きながらも、私なりの「真実」を描いてみたいと思います。

それは、ゴジラ自身が最大の「当事者」ではないか、という事。

初代ゴジラから描かれてきたゴジラ誕生の背景。様々な出来事。そして今回の「シン・ゴジラ」を観て。
壮大な、そして膨大な「当事者」の螺旋状の軌跡の果てに、私は思いました。

何かを隠し、痛めつけ、その上で何も知らずに座っている水 面下で、人智を超えた惨劇が待っているという事。
そして人が生み出したものでも、人智を超えて悲劇をもたらし得るという事。
人類の歴史はその連続であったし、今ほど悲劇が国境を越えやすい時代は無いのかもしれません。

隠されていた「負」が暴かれ、溢れ出し、誰もが「当事者」になり得てしまう時代。

私達は何をするべきか。

家も、ビルも、人々の命や生活も、全てを崩れさせてしまうような悲劇を描いた映画を観て。

私は私なりに、今も考えています。