水槽の先で待つもの(短編小説)

退屈。退屈。退屈。

退屈があふれかえる。

街で。近所で。画面の前で。どこかで。工場の煙を通し世界を見ている気分。

しかし同時に不安でもある。

強く不安でもある。

世界を濁らせる煙が晴れて動かなければいけなくなった時、私はどうなるのか。

世界は変化を巻き込みながら廻る。

海の遥か向こうの叫びと緊急事態がデータ化されて届く。いや、そこまで想いを巡らせなくても、速く早く回転するような友人もいれば、近い範囲で視界をこじ開けるような話も聞く。

しかし、全ては煙を通し見ているようだ。退屈と不安の煙が視界を濁らせ、同時に絶えず身体の穴に呼吸を強い、沈殿物が記憶の底に貯まる。どこにも飛べないが、同時に地に足着かず、煙の上、浮かされているような感じだ。

「マグロ状態」で見る夢。景色。選択肢。

どこに行くのか不安なのに、どこに行くのか分かってしまうような未来。

話はこうだ。表向きのカードがあって、記号も数字も全て分かる。大体カードは5枚くらい。1はかなり「平凡な」不幸。2は平凡な不幸。3は平凡な「普通」。4は平凡な幸せ。5は平凡な「かなりの幸せ」。私自身どのカードを引くことになるかは分からないが、とにかくカードの中身が分かっている。不安とも退屈ともつかない欠伸が出る。訓示は灰色のシャボン玉。弾けて無い中身を晒し、私はむせる。ただただ、また吸い込む煙が増える。更に沈殿する。

「お前、1のカードを引くぞ?」

「お前、1のカードを引くぞ?」

「お前、良くて2だな」

煙を通して見た世界は貧困であり、濁った水槽のようである。何か滑りに引っかかって倒れても、透明な世界が続いていくだけ。透明なのに外が見えない容器。外に行くのは誰なのだろう? 容器を通してであるが濁って見えるので、不幸な世界なのではないかと思ってしまう。

やはり話はこうだ。選択肢は全て見えているけどそのうちどこに行くから分からないから不安なのだ。どうにしろ知れているが。ただ最近は下のカードをひく人間が増えているという。水槽の端の端に黒い染みのように蠢いている連中がそうか? 容器の中だがよく見えない。容器の中の壁。仕切り。街。遊び。作り笑いの絡み。海の向こうでさえ容器の中?

容器の上部が開いた。1人通れそうな天井のドア。ほんの少しだけ顔を見せる外の世界。真っ黒なセーターを着た人間の後ろは更に真っ暗な煙で覆われている。これが外の世界。

セーターの人間が天井ドアの向こうから訓示を垂れる。不思議なもので、今日こそは耳を傾けて聞き逃すまいとささやかな実験を試みるのだが、何もしていないのに欠伸を強いられているような妙な感覚になり、一言も租借できない。覚えていない。しかし更に不思議なのは、身体だけ弛緩して、胸の奥に灰色の沈殿が溜まっていく事なのだ。何一つ耳から耳へすり抜けるが、黒いセーターから目を背ける事ができない。

やがて訓示が終わった。目を背ける事ができる。横で聞いていたやつらは顔を小刻みに震わせている。目から涙が出そうであった。昨日愚痴を言い合った仲間達。多分、今夜も言い合うだろう。しかし明らかに、お互いの胸の奥を掘り下げていく事はできなくなるだろう。もともと掘り下げられていたのか、分からないけれど。

百花斉放、百家争鳴。

分かりにくい例えかもしれないが、我々が語り合う時、常に口からカラフルな鎖を吐いて、知らぬ間に縛りあっていたのではないかという疑いに捕らわれる。まああれだ。口ではどんな夢でも語れるけど、身体は1歩も動かず、改札機みたいに、小刻みに訓示を消化していくようになるんだ。誰かが踏み出すのを待ったまま。みんなそうさ。私は更にそうさ。

黒いセーターがカードをばら撒き、天井のドアを閉め、消えた。

誰もが素早くカードに群がる。仕切りと仕切りの間を素早く動き、器用により数字の高い、5に近いカードを拾い、より低い数字のカードは次々と捨てられていく。仕切りや壁で影が出来ているところでは、時折人間の本性が真っ赤な液体となって噴出す。天井のドアから見える場所では、誰もがフェアプレーだ。都合が良いからな。だけど黒セーターも知っているはずさ。

ただ時々馬鹿をやらかす奴もいる。ほら。今回もいた。あらゆる悪態をつきながら影の無いところで流血の惨事を起こす。おおっぴら過ぎる。あの小太りの男は昨日あたり、ノートPCの何やら怪しげな画面を見せびらかしながら、水槽爆破計画がどうとか言ってたっけな? 正直少し羨ましいが、あまりインチキ臭いのもなあ。臭い割に策も無い。

都市伝説レベルの話(になっている)では、明後日にも黒い影の2、3人ほどで追跡して、小太りの男を「決して誰も行った事も無い、見た事も無い場所」に連れていくとの事だ。

さて、私はと言えば、鈍いし器用じゃないから、残り物の、無造作にあちこち散らばったカードにしかありつけず、今まで(悪い意味で)自己ベストの2のカードを引いてしまった。今夜の愚痴大会で「平凡な不幸だー!!」なんて叫ぶ私自身を思い浮かべ、滑稽さに震えそうになった。

壁のあちらこちらに貼られた、工場や機械が描かれたポスター郡が、今後の私の不幸を物語る。配給の低下。地位の低下。名誉の低下。まあ、5を引いたところで、凄いと言ったら凄いが、大して面白くもないだろう。

 

繰り返すが、面白くないが、不安に晒される。それが我々と水の無い水槽の世界の全てだ。

 

愚痴大会は退屈だったが、泣きそうな気持ちになるとは思わなかった。仲間達の全員が3以上で、安心した胸の奥を晒しながら、安全圏から愚痴を言い合ってきた。こういう時は例え不幸自慢でも誰もが饒舌になる。延々止まらない「カラフルな鎖の縛り合い」。一方私は飲めば飲むほど胸の奥の暗いところが広がっていく気がして、泣きそうになったところで、立ち上がった。仲間達に一言「酔いと不幸覚ましさ」と告げ、夜の街を歩く。なんだか端の方まで行きたくなってきた。寒い。ついたり消えたりの街頭、あまりしない車の音。より静かな方へ歩く。しかし、騒がしさは無くなる代わりに、濁った空気を伝い、「うめき声」がどこからともなく聞こえてくる。胸の底をすくうような声。寂れた街で、路上にボロボロの姿で寝転ぶ人も増えてくる。紙切れ1枚「1のカードを拾った」なんて言葉にすると簡単だが、実際に配給を減らされ、見捨てられ、蔑まれ、日に日に服は灰に汚れ、髪に白いものが増え、細りきって歩ける足も無い。赤子は肋骨が浮き出たまま路上の真ん中に放置され、もっとも私の胸をすくう「うめき声」をあげている。それは切り裂くような叫び声のようである。

しかし、こんな事を考えると軽いかもしれないが、普段感じないような実感というか、リアリティを私の完成に与える場所でもある…の…だ。あれ? 私はたまたまコートのポケットに手を入れて、気づいた。財布が…無い。一瞬うめき声すら消え、真っ黒とも真っ白ともつかない世界に放り出される。そして具体的に財布に入っていたものが頭の中に浮かぶ。金。配給券。各種生活に必要な場所に入るためのカード。その他諸々…足下から何かが崩れていくと同時に、この気持ちさえ、どこかで味わった気がした。よりマシになるか、より不幸になるか。不安と憂鬱感に日々を飼いならされ、今もそれを繰り返しているに過ぎない。だったらいいじゃないか。私の胸の中を、また聞こえ始めた赤子のうめき声が突き刺し、穴を開けた。穴からは、すっきりした風が吹き抜ける。そんな気がした。

 

壁があれば壊すし、人が立ちはだかってもグシャリと壊せる。

 

財布を入れていたのとは逆側のポケットから携帯電話を取り出す。画面上の数字を素早く弾く。電話の向こうからする、息切れしそうな声。黒い男に追われている、追われている…必死そうであった。私は2、3短く質問し、今いる場所を簡潔に説明した。普段は口下手なのに、不思議なものだ。ふうっ、了解…息を切らした声が切れる。私は携帯電話をしまい、しばらく立ち止まる。夜の街路に雪が降り出し、容赦無く赤子の上にも降り注ぐ。音も無く降る雪。増していく赤子の叫び。私は考え、そして歩き出した。寝ているか倒れているか分からない街路の人々に声をかけていき、同じ目線の高さになり、息と言葉を吹き込む。雪と闇の中、私は歩き続けた。

 

午前0時過ぎ、「1」番地で大きな爆発があり、続いて次々と小規模な爆発が続き、明け方に水槽の世界の混乱は最大に達した。1番地は水槽の端だから、爆発で大きな穴を開ける事で、水槽と外の世界を直接結んだのだった。

私は大半の1番地の住人と共に、水槽の外に出たが、あまり黒い煙が一気に襲い掛かってきて、せきをするどころですら無かった。肺に一瞬で毒を注がれるのではないか、というほどの煙の量。

と思いきや一瞬で煙が消え、今度は一瞬で視力を奪われるほどの眩しい世界が姿を現した。限りない太陽と青空。その下で煙吐き続ける果てしない工場地帯。圧倒的な世界が姿を現した。

 

一瞬で窒息しそうになり、

一瞬で生きる確信を取り戻す。

 

そんな限り無い世界を歩いていくのだ。