夕刻の廃材

戻りたい
ここでは無いどこかへ

行った事も無い工場が海沿いにあって
海からは僕の精神が溢れ出す
青空をにじませる煙
全て海から生まれた
僕の精神や
灰色の廃材さえも

いっその事止む事無き水を汲み上げて
胸の中に工場を産み付けるがいい
自動筆記機械
しかし僕は忘れてしまった
工場と海へと繋がる
細い茂みの道を
見つけたよしかし
岡崎京子の漫画は地図では無い
地面に文字を書き記す事ができないから
いつまでも僕の精神は宙に浮いたまま
故郷喪失者

今度は天空だけ交代して
煙は月をにじませた
工場のふもとのほこりっぽいバラック群に
赤提灯が次々と灯る
7:00-18:00の労働を終えた人々が
バラック群に点在する酒場で各々
いつも春であるかのように語り合う

貧しくも帰る場所がある人々と
どんなに肥えても帰る場所が無い僕達

戻りたい
ここでは無いどこかへ

グッバイ! フィデル!!

飽食とネオンと

見えないところには大きな空っぽ

そんな現代社

 

何言うのも自由だけど

言葉を乗せた天秤は片方にぐらついていた

これも見えないものだから

この星の叫びも

飽食とネオンに口と目と

ついでに耳も塞がれ

見えない聞こえないそして

言えなかったの

 

天秤は誰もが胸に隠し持ってる

だけどだけど不思議と

すべての天秤が糸でつながってる

もちろんその糸も見えないわ

最高機密トップシークレット特定秘密だわ

 

ねえフィデル

私は今も若いけど

もっともっと若い頃

あなたを知った私は

少しだけ秘密の穴

覗いた気分だった

 

ねえフィデル

髭もお似合い

葉巻もお似合い

だけれど秘かに思うのは

その軍服が一番お似合い

 

分かってる

あなたは私の天秤

もう片方に振り切らすこと

それはできなかった

やっぱりちょっと

軍服が似合いすぎたのが原因ね

だけれど秘密の穴覗いたら

滑稽なくらい眩しい光も見えたの

 

ドラマで見たスーパードクターの腕の見せ所は

あなたの国の眩しい海が運んだのね

今も本当に運んでるのね

 

ねえフィデル

私は少し年取って

でもまだまだ若いから

この星のお話や空想を

頭の中のラジオの乗せて

いっぱいいっぱい聞かせてあげる

 

ねえフィデル

向こうはいかが?

チェは元気?

マンデラさんは?

いいわね

友達との再会

 

さすがのあなたでも見通せなかった世界

それが私はあると思う

摩天楼の下に

そして私のいるところに巣食う現実

 

飽食は飢餓を喰らわすためか

生活は死体を製造するためか

ほんの少しずつほんの少しずつ

叫びも掛け声も

塞がれた耳から聞こえてくる

糸も振動

意図の動揺

 

死体隠す

燃えるマリー・クワント

 

ねえフィデル

バイバイフィデル

私は空っぽ

 

ねえフィデル

バイバイフィデル

胸の奥が拒食症

 

バイバイフィデル

バイバイフィデル

 

平行な天秤

水槽の先で待つもの(短編小説)

退屈。退屈。退屈。

退屈があふれかえる。

街で。近所で。画面の前で。どこかで。工場の煙を通し世界を見ている気分。

しかし同時に不安でもある。

強く不安でもある。

世界を濁らせる煙が晴れて動かなければいけなくなった時、私はどうなるのか。

世界は変化を巻き込みながら廻る。

海の遥か向こうの叫びと緊急事態がデータ化されて届く。いや、そこまで想いを巡らせなくても、速く早く回転するような友人もいれば、近い範囲で視界をこじ開けるような話も聞く。

しかし、全ては煙を通し見ているようだ。退屈と不安の煙が視界を濁らせ、同時に絶えず身体の穴に呼吸を強い、沈殿物が記憶の底に貯まる。どこにも飛べないが、同時に地に足着かず、煙の上、浮かされているような感じだ。

「マグロ状態」で見る夢。景色。選択肢。

どこに行くのか不安なのに、どこに行くのか分かってしまうような未来。

話はこうだ。表向きのカードがあって、記号も数字も全て分かる。大体カードは5枚くらい。1はかなり「平凡な」不幸。2は平凡な不幸。3は平凡な「普通」。4は平凡な幸せ。5は平凡な「かなりの幸せ」。私自身どのカードを引くことになるかは分からないが、とにかくカードの中身が分かっている。不安とも退屈ともつかない欠伸が出る。訓示は灰色のシャボン玉。弾けて無い中身を晒し、私はむせる。ただただ、また吸い込む煙が増える。更に沈殿する。

「お前、1のカードを引くぞ?」

「お前、1のカードを引くぞ?」

「お前、良くて2だな」

煙を通して見た世界は貧困であり、濁った水槽のようである。何か滑りに引っかかって倒れても、透明な世界が続いていくだけ。透明なのに外が見えない容器。外に行くのは誰なのだろう? 容器を通してであるが濁って見えるので、不幸な世界なのではないかと思ってしまう。

やはり話はこうだ。選択肢は全て見えているけどそのうちどこに行くから分からないから不安なのだ。どうにしろ知れているが。ただ最近は下のカードをひく人間が増えているという。水槽の端の端に黒い染みのように蠢いている連中がそうか? 容器の中だがよく見えない。容器の中の壁。仕切り。街。遊び。作り笑いの絡み。海の向こうでさえ容器の中?

容器の上部が開いた。1人通れそうな天井のドア。ほんの少しだけ顔を見せる外の世界。真っ黒なセーターを着た人間の後ろは更に真っ暗な煙で覆われている。これが外の世界。

セーターの人間が天井ドアの向こうから訓示を垂れる。不思議なもので、今日こそは耳を傾けて聞き逃すまいとささやかな実験を試みるのだが、何もしていないのに欠伸を強いられているような妙な感覚になり、一言も租借できない。覚えていない。しかし更に不思議なのは、身体だけ弛緩して、胸の奥に灰色の沈殿が溜まっていく事なのだ。何一つ耳から耳へすり抜けるが、黒いセーターから目を背ける事ができない。

やがて訓示が終わった。目を背ける事ができる。横で聞いていたやつらは顔を小刻みに震わせている。目から涙が出そうであった。昨日愚痴を言い合った仲間達。多分、今夜も言い合うだろう。しかし明らかに、お互いの胸の奥を掘り下げていく事はできなくなるだろう。もともと掘り下げられていたのか、分からないけれど。

百花斉放、百家争鳴。

分かりにくい例えかもしれないが、我々が語り合う時、常に口からカラフルな鎖を吐いて、知らぬ間に縛りあっていたのではないかという疑いに捕らわれる。まああれだ。口ではどんな夢でも語れるけど、身体は1歩も動かず、改札機みたいに、小刻みに訓示を消化していくようになるんだ。誰かが踏み出すのを待ったまま。みんなそうさ。私は更にそうさ。

黒いセーターがカードをばら撒き、天井のドアを閉め、消えた。

誰もが素早くカードに群がる。仕切りと仕切りの間を素早く動き、器用により数字の高い、5に近いカードを拾い、より低い数字のカードは次々と捨てられていく。仕切りや壁で影が出来ているところでは、時折人間の本性が真っ赤な液体となって噴出す。天井のドアから見える場所では、誰もがフェアプレーだ。都合が良いからな。だけど黒セーターも知っているはずさ。

ただ時々馬鹿をやらかす奴もいる。ほら。今回もいた。あらゆる悪態をつきながら影の無いところで流血の惨事を起こす。おおっぴら過ぎる。あの小太りの男は昨日あたり、ノートPCの何やら怪しげな画面を見せびらかしながら、水槽爆破計画がどうとか言ってたっけな? 正直少し羨ましいが、あまりインチキ臭いのもなあ。臭い割に策も無い。

都市伝説レベルの話(になっている)では、明後日にも黒い影の2、3人ほどで追跡して、小太りの男を「決して誰も行った事も無い、見た事も無い場所」に連れていくとの事だ。

さて、私はと言えば、鈍いし器用じゃないから、残り物の、無造作にあちこち散らばったカードにしかありつけず、今まで(悪い意味で)自己ベストの2のカードを引いてしまった。今夜の愚痴大会で「平凡な不幸だー!!」なんて叫ぶ私自身を思い浮かべ、滑稽さに震えそうになった。

壁のあちらこちらに貼られた、工場や機械が描かれたポスター郡が、今後の私の不幸を物語る。配給の低下。地位の低下。名誉の低下。まあ、5を引いたところで、凄いと言ったら凄いが、大して面白くもないだろう。

 

繰り返すが、面白くないが、不安に晒される。それが我々と水の無い水槽の世界の全てだ。

 

愚痴大会は退屈だったが、泣きそうな気持ちになるとは思わなかった。仲間達の全員が3以上で、安心した胸の奥を晒しながら、安全圏から愚痴を言い合ってきた。こういう時は例え不幸自慢でも誰もが饒舌になる。延々止まらない「カラフルな鎖の縛り合い」。一方私は飲めば飲むほど胸の奥の暗いところが広がっていく気がして、泣きそうになったところで、立ち上がった。仲間達に一言「酔いと不幸覚ましさ」と告げ、夜の街を歩く。なんだか端の方まで行きたくなってきた。寒い。ついたり消えたりの街頭、あまりしない車の音。より静かな方へ歩く。しかし、騒がしさは無くなる代わりに、濁った空気を伝い、「うめき声」がどこからともなく聞こえてくる。胸の底をすくうような声。寂れた街で、路上にボロボロの姿で寝転ぶ人も増えてくる。紙切れ1枚「1のカードを拾った」なんて言葉にすると簡単だが、実際に配給を減らされ、見捨てられ、蔑まれ、日に日に服は灰に汚れ、髪に白いものが増え、細りきって歩ける足も無い。赤子は肋骨が浮き出たまま路上の真ん中に放置され、もっとも私の胸をすくう「うめき声」をあげている。それは切り裂くような叫び声のようである。

しかし、こんな事を考えると軽いかもしれないが、普段感じないような実感というか、リアリティを私の完成に与える場所でもある…の…だ。あれ? 私はたまたまコートのポケットに手を入れて、気づいた。財布が…無い。一瞬うめき声すら消え、真っ黒とも真っ白ともつかない世界に放り出される。そして具体的に財布に入っていたものが頭の中に浮かぶ。金。配給券。各種生活に必要な場所に入るためのカード。その他諸々…足下から何かが崩れていくと同時に、この気持ちさえ、どこかで味わった気がした。よりマシになるか、より不幸になるか。不安と憂鬱感に日々を飼いならされ、今もそれを繰り返しているに過ぎない。だったらいいじゃないか。私の胸の中を、また聞こえ始めた赤子のうめき声が突き刺し、穴を開けた。穴からは、すっきりした風が吹き抜ける。そんな気がした。

 

壁があれば壊すし、人が立ちはだかってもグシャリと壊せる。

 

財布を入れていたのとは逆側のポケットから携帯電話を取り出す。画面上の数字を素早く弾く。電話の向こうからする、息切れしそうな声。黒い男に追われている、追われている…必死そうであった。私は2、3短く質問し、今いる場所を簡潔に説明した。普段は口下手なのに、不思議なものだ。ふうっ、了解…息を切らした声が切れる。私は携帯電話をしまい、しばらく立ち止まる。夜の街路に雪が降り出し、容赦無く赤子の上にも降り注ぐ。音も無く降る雪。増していく赤子の叫び。私は考え、そして歩き出した。寝ているか倒れているか分からない街路の人々に声をかけていき、同じ目線の高さになり、息と言葉を吹き込む。雪と闇の中、私は歩き続けた。

 

午前0時過ぎ、「1」番地で大きな爆発があり、続いて次々と小規模な爆発が続き、明け方に水槽の世界の混乱は最大に達した。1番地は水槽の端だから、爆発で大きな穴を開ける事で、水槽と外の世界を直接結んだのだった。

私は大半の1番地の住人と共に、水槽の外に出たが、あまり黒い煙が一気に襲い掛かってきて、せきをするどころですら無かった。肺に一瞬で毒を注がれるのではないか、というほどの煙の量。

と思いきや一瞬で煙が消え、今度は一瞬で視力を奪われるほどの眩しい世界が姿を現した。限りない太陽と青空。その下で煙吐き続ける果てしない工場地帯。圧倒的な世界が姿を現した。

 

一瞬で窒息しそうになり、

一瞬で生きる確信を取り戻す。

 

そんな限り無い世界を歩いていくのだ。

「リトル・ガール・ブルー」~ジャニスの先を行こう、彼女が抱えたような孤独と向き合うために~

坂本龍一吉本隆明との対談で、「日本だと本気で音楽を聴くというのは危ない気がして、それを避けるためにアイドルとかが幅広く受け入れられるんじゃないか」という主旨の事を語っていました。

そして吉本隆明は自身の講演で、「誰かに提示したり、話したり説明したりするように使われる言葉が指示表出、ふとした瞬間に出る言葉や1人ごとみたいなものが自己表出であり、自己表出こそが言語の根幹である」というような事を語っていました。

ただ自己表出が言語の根幹だから必ずしも優れているという訳ではないみたいで、訳の分からない1人語りや人に明確に伝える気があるか分からない罵倒といったものがネットを中心に溢れている気はします。
「感情が劣化して、表現ではなく、ヘイトみたいな表出が増えてしまっている」と言ったのは社会学者の宮台真司でした。

ここまでは評論を読んでいただくにあたっての材料というか、下準備のような文章になります。

さて、本題である映画の話に入りましょう。米国の伝説的女性アーティストであるジャニス・ジョプリンのドキュメンタリーですが、ジャニスのパワフルなライブ映像。(声量や動きから、ツェッペリンロバート・プラントを思い出しました)関係者や友人、家族らのインタビュー等、貴重な映像が続きます。
ただ映像に流れる歌詞をチラッと見て思ったのですが、相談する相手がいる事の大切さを説いたり、ポジティブさが説かれたりという歌もあり、米国流の上に上がるための思考法というか、ポジティブな考え方は幅広く根付いているのではないか、なんていう事を推測ですが思いました。確か日本で現在氾濫している自己啓発の数々も源流を辿れば多くは米国だった気がします。

しかし、演奏シーンの力強さに胸を打たれ、ジャニスをもっと聴いてみようと思ったのは収穫でしたが、それはこの映画の要素の半分ですね。
変わり者とされ学校等の集団から外れた青春時代。公民権運動の中で、故郷テキサスを出て行き着いたサンフランシスコで模索した歌手への人生。(ジャニスは差別に反対したり、ゲイバーに入り浸ったりもしていたそうです)
成功してもバンド内で揉め、サンフランシスコから共にやってきたメンバーとは分裂。失われるサンフランシスコという拠点。  新しいバンドでの成功と亀裂、ドラッグやアルコールへの依存。自分を失い求められるイメージに取り込まれてしまう悲劇。そして破滅。
映画のもう半分には、ジャニスの抱えた孤独や悲劇がかなりの密度で描かれていました。

セックスしているように快感だというライブ。しかしライブが終われば客もそれぞれの家に帰り、バンドメンバーも一旦家族の元に帰ります。1人取り残されるジャニスの孤独。そして様々な人間関係の葛藤。
ジャニスの歌は上に書いたような自己啓発(?)的な歌もありますが、感情を増幅させて、高らかに表現したものが多い。そうしたジャニスの自己表出とも言えるような叫びに、ファンも共感したのでしょう。
しかし一方でジャニスは、破滅していく自らも、正解に把握していた節があります。
ジャニスがインタビューに答える時、言葉はまとまっており、的確な内容を話しているように感じました。寧ろ周りのバンドメンバーの方がはしゃいだりしていて幼く見えたくらい。
ただジャニスが語る時、少し表情が陰鬱に見えた気がしましたし、故郷の同窓会に行った時に、誰にも話されない孤独の中でジャニスが語るシーンはなかなかつらいものがありましたね。
また家族の手紙や確か自分のためだけにも文章を残しており、映画の静かな見どころですが、どこか影を感じさせる内容になっています。

ジャニスのライブでの叫びが、必死の自己の叫びだとしたら、アメリカは社会の天井が突き抜けてしまうくらい、自己表出に溢れた社会じゃないか、とも思えます。
最近の大統領選でトランプ氏とクリントン氏の討論が話題になり、質が低いという評価もかなりされていましたが、質の問題だけではないのではないでしょうか。 
トランプをぶん殴ってやりたいと言った俳優、アンチトランプソングを作る著名ミュージシャンたち、何気ない街角や生活の中で政治を語り合う市民達、病んでいるのに天井が破れた先には空が見えていて、閉塞感が無いのが米国社会なのかもしれません。
それだけに公の討論でもネットレベルの表出が溢れ、際限の無さは感じますが。

何というか、普段言いにくい苦しさや不安等の自己表出の着地点を見いだす事ができない中で、ステージだけを幸せとし、後は酒やドラッグで破滅してしまったジャニスの中に、米国社会に限らない、世界中の社会が長く引きずってきた病理を見てしまいます。
押さえられた病理がそのうち爆発してしまう社会。

「あたし達は何かをかくすためにお喋りをしてた。
ずっと
何かを言わないですますためにえんえんと放課後お喋りをしていたのだ」
岡崎京子リバーズ・エッジ』)

社会を覆う巨大な会話不能(ディス・コミュニケーション)の体系と凶悪事件やネット炎上、過激政治家の出現などに現れる「苦しんでいる人々の叫び」。ジャニスは叫びを最上の表現に変えて人々に示した、課題を提示した先駆者と言えるのではないか。

しかし敢えて言いたいのは、「私達はジャニスの苦しみを継ぎながらも、彼女の一歩先を歩いているのではないか」という事です。

マツコ・デラックスは「(沖縄出身の歌手)Coccoは私の中でジャニスを超えた唯一の歌手」と凄い事を言いましたが、そのCocco自身の人生というのは、自らが自らの表現の凄さに殺されないように、繋がりを模索し続けている人生である、と私は考えます。
Coccoのプロジェクトや映画出演等を通した若者達との交流やそこから得られたという気付きに、繋がりを求めた成果が現れているように感じます。詳しくは省きますが。
私から見れば、音楽界も含め、今の表現界は表現のソリッドさを落とさないようにしつつも、孤独にならずに地に足つけて歩いていく方法というのを、不十分ながらも模索している気がします。
破滅していった尾崎豊とか聴くと、今は昔より上手く抵抗しているな、というのを感じます。

日本の場合皮肉にも、坂本龍一が言うような状況(この文章の冒頭参照)が閉塞感をもたらして尾崎豊のような人を苦しめ、逆に今は表現に真剣になりつつも、破滅しないで地に足付けるいい方法を模索するきっかけになっている気はします。
政治もそうなのかもしれません。連合赤軍のようなリンチ事件や内ゲバのような過激な活動の後、「政治に本気になるのは危ない事である」と人々が感じ、それが無関心に繋がっていった面はあると思います。
この前解散したシールズなんかを見ても、いかに人々に受け止めてもらえるかという事が重視されており、地に足を付けていこう、という姿勢をかなり感じました。(2冊くらい関係書籍を読みましたが)

こんな事言っても実感の無い方もいらっしゃるでしょうが、やはり私達は、ジャニスを継ぎながらも、ジャニスより一歩先にいる、という事を、私は繰り返しになりますが言いたいのです。



 

たまたま滑り台滑らずに済んでいるだけ(森達也監督「A2」感想)

森達也監督の「A2」を見て来ました。(名古屋市今池のシネマテークオウム真理教を追ったドキュメンタリーです。(1作目の「A」は見た事が無い)
ちょっと古めかしい建物に、飲み屋とかもある中で、上の階が映画館になっており、雰囲気があっていいですね。味のある映画をたくさんやってますし。
(以前遠藤ミチロウさんに舞台挨拶後、サインもらってツーショット撮ってもらったのは貴重な思い出だなあ)

さて、突然ですが映画の感想に入る前に、後で説明で使うだろう用語、「アイロニカルな没入」について説明します。
社会学者、大澤真幸氏が語った言葉ですが「どこかマズいと分かっていても、利益もあるしなかなか止められない。頭で分かってても何となくやり続けてしまう」という感じの意味です。
私が大澤氏の本を読んだ時は、原子力発電推進を例にしていました。「事故が起きたら大惨事だし危険はあるが、そんな高い確率ではないし、経済的利益をもたらす訳だし、簡単に止められないよなあ。推進しちゃえ」てな感じでしょうか。
今でも推進派(維持派)の方の意見にこんなのがありますよね。
「そんな脱原発と言ったって簡単に止めれないだろう。経済もあるし。交通事故が問題だからって、車社会止めるかい?そりゃ混乱するよ社会や経済が」

さて、映画ですが、僕も含めた観客の反応も含め、かなり面白かったです。
サリン事件を起こし数年経ったオウムは、修行施設にあちらこちらの地域を移動しますが、移動先の住民の反対運動にあい、なかなか定着できません。
しかしオウムの施設のすぐ隣に監視小屋を作った住民の方も、時間が経つとともにオウム信者との交流が生まれ、普通に談笑したりするようになる地域もあります。結局はオウムは立ち退くのですが、地域住民が「寂しいねえ」なんてコメントしたりします。
また横浜でオウムと話し合おうとする右翼団体がオウムを監視する警察と言い合う時に主張する事が、口調は乱暴ですがかなりの正論だったりして、意外性があります。地域から追い出してもまた逃げた先でも追い出され、根本的解決にはならないだろうと。
こうした意外性というのはこの映画のポイントの1つですが、意外性のあるシーンで、度々映画館で笑いが起きていたのも凄い。僕も何度も笑いましたが。オウムの映画なのに....

森達也は「マスコミの取り上げないオウムの側面」を撮っている訳で、一方的にオウムに反対する地域住民の主張の弱さを突いたりもする訳ですが、森達也がオウムに少しでも共感してしまっているかというと、そうではない。
森達也の鋭い質問はオウム信者にももちろん向けられるし、河野義行さんのオウムへの発言の鋭さや右翼団体の主張というのは、生半可な世間のオウムへの反発よりも、何倍もの威力を持っています。
そしてそうした森達也や河野さんや右翼団体の姿勢がオウムの本質や問題点をどこまでも深く突いている訳です。
どのような立場であれ深みの無いものはろ過し、最後に真理に近い言葉や主張を残す、森達也監督のドキュメンタリーへの姿勢は徹底しています。

それにしても、私も含め、映画を見ながら笑った観客達は何故笑ったのでしょうか?
記憶が正しければ、意外性のあるオウムの側面や地域住民との交流、右翼団体のシーンで笑いが多かったように感じます。
逆に普通のマスコミや取材でも撮れそうな、ただ一方的にオウムに反対する住民のシーンと言ったものには笑いは起きていません。実際そこまで興味深いものではない。
この映画では、マスコミ批判が色々な人から語られますが、私も含め、意外性のあるシーンで笑った我々は、「世間一般のありきたりな見方」からの解放感を感じ、笑ったのもあるのではないか。

「オウムのやった事は決して許される事ではないが、日本社会の一部な訳で、オウムだけ切り離して叩く普通のやり方も案外根拠ってないよね」

では、私達映画を見ていた観客の大半は社会のどこに位置するのか?
映画に当てはめてみれば、大半の観客はオウムの関係者ではないだろうし、被害者の方やその関係者の方でも無いだろう。オウムに遭遇してしまった地域住民でも無いだろうし、右翼団体とか特別な関係者でも無いだろう。

多分、私達観客は、「どこかで破局の恐れながら、日常にアイロニカルに没入する一般市民」なのではないでしょうか。
普段我々は時に理不尽や嫌な事、競争に晒されながら、嫌でも日常を生きています。日本の労働者の生産性は世界的に見ても低いというデータがあり、実際モチベーションも低い、というデータもあるが、だからと言って、過酷だからとすぐ会社を辞める訳にもいかないだろう。それは学校なども同じです。
経済的安定とか将来の安定とかもあるし、色々問題はあるのは分かるが、辞められない。それこそアイロニカルに没入するしかないのです。
しかしある時境界を越えてしまって、大惨事に巻き込まれる人がいる。嫌々やってた仕事が更に更に過酷になり、過労死したり心身の健康を害する人。プレッシャーなどに耐えてたが、耐えれなくなったり受験競争に敗れ、大きな喪失感を味わう人。アイロニカルなはずが、アイロニカルどころじゃなくなっている。悪い方向への滑り台を滑ってしまったのです。

更に言えば、アイロニカルな没入とやらに成功した人が破局を迎える事もある。オウムは高学歴の人が多いが、日常から離れ、最後は学問を人殺しに使うまでに転落してしまった。現在でも欧州を中心に、イスラム国に共感して参加してしまう人には裕福で高学歴な人が多いのだと言います。

森達也監督は「日本社会の悪いものが吹き出すきっかけとしてオウムの事件があり、今日本社会は更に悪くなっている」と言いました。オウムは今ではかなり分かりやすい悪だから叩きやすいが、登場した同時は、仏教やヨガを取り入れた分かりやすさというか、受け入れやすさみたいなのがあった訳です。
今はどうでしょうか?相模原の障害者施設の事件では、日本全体に障害者への不寛容が広がっているとの問題定義がありましたが、事実だとしたらかなり恐ろしい事です。
ヘイトスピーチに対するカウンターや反対運動が出た時も、私は安心感を覚えましたが、(当事者である在日の方々は更に色々な感情を持っていると思います)それはまだ捨てたものではない(はずの)日本社会への安堵でもある訳です。

「そりゃあでも差別はよくないよ?でもさあ、外国人も障害者も貧乏人もある意味国のお荷物な面もある訳じゃん。ああ、過労?そりゃあブラックはよくないけど、すぐ辞めて、というのもよくないし、生活保護で国のお荷物予備軍臭いよね」

ここまで露骨ではなくても、上のようなアイロニカルな気分が日本を覆い始めていて、いつ悲劇の滑り台を滑るかは分からない訳で、それでも我々はアイロニカルな日常への没入を続けなければいけない訳です。
意外に不安定で根拠の無い「普通の見方」から解放された「笑い」が何を意味していたか、深く考えてみる必要がありそうです。

たまたま滑り台滑らずに済んでいるだけ(森達也監督「A2」感想)

森達也監督の「A2」を見て来ました。(名古屋市今池のシネマテークオウム真理教を追ったドキュメンタリーです。(1作目の「A」は見た事が無い)
ちょっと古めかしい建物に、飲み屋とかもある中で、上の階が映画館になっており、雰囲気があっていいですね。味のある映画をたくさんやってますし。
(以前遠藤ミチロウさんに舞台挨拶後、サインもらってツーショット撮ってもらったのは貴重な思い出だなあ)

さて、突然ですが映画の感想に入る前に、後で説明で使うだろう用語、「アイロニカルな没入」について説明します。
社会学者、大澤真幸氏が語った言葉ですが「どこかマズいと分かっていても、利益もあるしなかなか止められない。頭で分かってても何となくやり続けてしまう」という感じの意味です。
私が大澤氏の本を読んだ時は、原子力発電推進を例にしていました。「事故が起きたら大惨事だし危険はあるが、そんな高い確率ではないし、経済的利益をもたらす訳だし、簡単に止められないよなあ。推進しちゃえ」てな感じでしょうか。
今でも推進派(維持派)の方の意見にこんなのがありますよね。
「そんな脱原発と言ったって簡単に止めれないだろう。経済もあるし。交通事故が問題だからって、車社会止めるかい?そりゃ混乱するよ社会や経済が」

さて、映画ですが、僕も含めた観客の反応も含め、かなり面白かったです。
サリン事件を起こし数年経ったオウムは、修行施設にあちらこちらの地域を移動しますが、移動先の住民の反対運動にあい、なかなか定着できません。
しかしオウムの施設のすぐ隣に監視小屋を作った住民の方も、時間が経つとともにオウム信者との交流が生まれ、普通に談笑したりするようになる地域もあります。結局はオウムは立ち退くのですが、地域住民が「寂しいねえ」なんてコメントしたりします。
また横浜でオウムと話し合おうとする右翼団体がオウムを監視する警察と言い合う時に主張する事が、口調は乱暴ですがかなりの正論だったりして、意外性があります。地域から追い出してもまた逃げた先でも追い出され、根本的解決にはならないだろうと。
こうした意外性というのはこの映画のポイントの1つですが、意外性のあるシーンで、度々映画館で笑いが起きていたのも凄い。僕も何度も笑いましたが。オウムの映画なのに....

森達也は「マスコミの取り上げないオウムの側面」を撮っている訳で、一方的にオウムに反対する地域住民の主張の弱さを突いたりもする訳ですが、森達也がオウムに少しでも共感してしまっているかというと、そうではない。
森達也の鋭い質問はオウム信者にももちろん向けられるし、河野義行さんのオウムへの発言の鋭さや右翼団体の主張というのは、生半可な世間のオウムへの反発よりも、何倍もの威力を持っています。
そしてそうした森達也や河野さんや右翼団体の姿勢がオウムの本質や問題点をどこまでも深く突いている訳です。
どのような立場であれ深みの無いものはろ過し、最後に真理に近い言葉や主張を残す、森達也監督のドキュメンタリーへの姿勢は徹底しています。

それにしても、私も含め、映画を見ながら笑った観客達は何故笑ったのでしょうか?
記憶が正しければ、意外性のあるオウムの側面や地域住民との交流、右翼団体のシーンで笑いが多かったように感じます。
逆に普通のマスコミや取材でも撮れそうな、ただ一方的にオウムに反対する住民のシーンと言ったものには笑いは起きていません。実際そこまで興味深いものではない。
この映画では、マスコミ批判が色々な人から語られますが、私も含め、意外性のあるシーンで笑った我々は、「世間一般のありきたりな見方」からの解放感を感じ、笑ったのもあるのではないか。

「オウムのやった事は決して許される事ではないが、日本社会の一部な訳で、オウムだけ切り離して叩く普通のやり方も案外根拠ってないよね」

では、私達映画を見ていた観客の大半は社会のどこに位置するのか?
映画に当てはめてみれば、大半の観客はオウムの関係者ではないだろうし、被害者の方やその関係者の方でも無いだろう。オウムに遭遇してしまった地域住民でも無いだろうし、右翼団体とか特別な関係者でも無いだろう。

多分、私達観客は、「どこかで破局の恐れながら、日常にアイロニカルに没入する一般市民」なのではないでしょうか。
普段我々は時に理不尽や嫌な事、競争に晒されながら、嫌でも日常を生きています。日本の労働者の生産性は世界的に見ても低いというデータがあり、実際モチベーションも低い、というデータもあるが、だからと言って、過酷だからとすぐ会社を辞める訳にもいかないだろう。それは学校なども同じです。
経済的安定とか将来の安定とかもあるし、色々問題はあるのは分かるが、辞められない。それこそアイロニカルに没入するしかないのです。
しかしある時境界を越えてしまって、大惨事に巻き込まれる人がいる。嫌々やってた仕事が更に更に過酷になり、過労死したり心身の健康を害する人。プレッシャーなどに耐えてたが、耐えれなくなったり受験競争に敗れ、大きな喪失感を味わう人。アイロニカルなはずが、アイロニカルどころじゃなくなっている。悪い方向への滑り台を滑ってしまったのです。

更に言えば、アイロニカルな没入とやらに成功した人が破局を迎える事もある。オウムは高学歴の人が多いが、日常から離れ、最後は学問を人殺しに使うまでに転落してしまった。現在でも欧州を中心に、イスラム国に共感して参加してしまう人には裕福で高学歴な人が多いのだと言います。

森達也監督は「日本社会の悪いものが吹き出すきっかけとしてオウムの事件があり、今日本社会は更に悪くなっている」と言いました。オウムは今ではかなり分かりやすい悪だから叩きやすいが、登場した同時は、仏教やヨガを取り入れた分かりやすさというか、受け入れやすさみたいなのがあった訳です。
今はどうでしょうか?相模原の障害者施設の事件では、日本全体に障害者への不寛容が広がっているとの問題定義がありましたが、事実だとしたらかなり恐ろしい事です。
ヘイトスピーチに対するカウンターや反対運動が出た時も、私は安心感を覚えましたが、(当事者である在日の方々は更に色々な感情を持っていると思います)それはまだ捨てたものではない(はずの)日本社会への安堵でもある訳です。

「そりゃあでも差別はよくないよ?でもさあ、外国人も障害者も貧乏人もある意味国のお荷物な面もある訳じゃん。ああ、過労?そりゃあブラックはよくないけど、すぐ辞めて、というのもよくないし、生活保護で国のお荷物予備軍臭いよね」

ここまで露骨ではなくても、上のようなアイロニカルな気分が日本を覆い始めていて、いつ悲劇の滑り台を滑るかは分からない訳で、それでも我々はアイロニカルな日常への没入を続けなければいけない訳です。
意外に不安定で根拠の無い「普通の見方」から解放された「笑い」が何を意味していたか、深く考えてみる必要がありそうです。

シン・ゴジラ感想 「当事者の 当事者による 当事者のための映画」

とにかく素晴らしい映画でした。

4DXという事もあり、身体の全てを使って映画を見た、というのも素晴らしさの理由の1つですが、
映画そのものの、映像やストーリーやキャスティング等、内容全てが4DXに負けていません。入口はシンプルながらも蓋を開けたらかなり濃い映画となっています。

4DXの演出すらも最後は凌駕して、心の底すら映画の世界の中に引っ張り出され、色々考えさせられました。

五感に加えて六感(!)で感じて、観た経験そのものを持ち帰れる映画と言えましょう。
(凄く誉める記事を書いてしまっていますが、今残っている感動はこれくらい書かないと足りません)

ストーリーは極力、99%書かず、ネタバ レ無しで感想を書いていきたいと思っています。
ただ、最低限の説明や、私の解釈から映画の感じが何となく分かってしまい、残り1%が30%くらいに感じてしまう方もいるかもしれません。
本当に事前情報をシャットアウトして純粋な気持ちで観たい方は、以下の感想は観た後に読まれた方がいいかもしれません。
(実際ストーリーは極力避けたのですが、シーンはいくつか紹介しているので、映画全体で言うと99%描かず、というのは保証できません汗 そもそも数値化自体
難しいですが....)

では、行きます。

最低限映画の流れとして言える事は

ゴジラが日本に現る
②政府を中心に策を練る
③世界を巻き込みながら(または様々な外国の思惑に日本も巻き込まれながら)、ゴジラとの熾烈な戦いが繰り広げられる

という事ですね。

政府の初期対応からの流れが、(現実の)日本を完全に変えてしまった、あの出来事への対応を想起させたり、
ゴジラが何故誕生してしまったか、日本は、世界は、ゴジラにどう向き合えばいいのか、といった根源的なところから、
戦争等、実際の歴史や現在の問題を様々に絡めながら、絶妙に話は展 開していきます。

ゴジラという現実にはいない生物を除けば、日本の政治から社会から外交から、化学等のあらゆる専門分野の知識に至るまで、
とにかくリアルに迫った、現実まみれの映画と言えましょう。

最初に4DXで五感を奪われ、話が展開するうちに、こだわり抜いた内容のリアルさに頭脳が奪われ、一体観ているこっちはどうすればいいの、
という状態になってしまいます。(笑)

しかし映画はこちらの五感と頭脳を引きずり込んでなお、終わりません。
更に奪われ、そしてそれでも残っている何かに気付くはずです。

当たり前ですが、日本には色々な人がいます。性別も性格も考え方も見た目も、今では国 籍が違う事も珍しくない。
日本という広い単位で見なくてもいい。政府の中でも違うし、街とか学校とか会社とか、身近なレベルで見ても、色々な人がいます。
色々な人がいるように見えなくて、全てが同じに見えてしまう事もありますが、それは多様な人や現実が隠されてしまい、裏で密かに悲しみ
を負っている人がいる、という事なのかもしれません。
視野を思いっきり広くしてみて、世界に目を向ければ、更に様々な異なる国があり、更に更に様々な人々がいます。

映画の中の世界ではゴジラですが、映画に絡めて大きな災害や、それに伴う科学の暴走、戦争の危機等に日本、もしくは世界が直面した時、
様々な人達はどのように変わり、またはどの ように変わる事なく、対応できるでしょうか。

そんな究極のシミュレーションを徹底的にリアルに行い、人類が破滅しかけても前を向けるかどうか、庵野監督は全身を使った思考実験に、
私達観る側にも協力してもらう形で、挑んだのかもしれません。

私が今回映画を観た中で、どうしても心の奥に留まり続け、外す事のできないキーワードがあります。

「当事者」

人間は日々様々な出来事に直面して、大きな社会や経済の流れに左右される事もありますが、
時に何かの当事者である、という事をさっぱり忘れてしまう事があります。
シン・ゴジラ」の政府の人々の中でも、国を守るギリギリの現場に近い人や、 残念ながらそうではない人等、様々な立場の人がいます。
政府の人の当事者感覚の無さというのは、私達も数年前の出来事等で思い出す部分もあるかもしれません。

しかしそれを批判し、失笑すれば済む話では無い。
惨事が起きても事の大きさに気付かず、惨事の動画をネット配信して楽しむ人がいたり、現実では無くスマートフォンを見続けている人が映画の中で
描かれていますが、同じ当事者感覚の無さと言えるでしょう。

映画の途中でアメリカの日系人に突き付けられるある質問が、大変印象に残ります。

しかし話が進むに連れて、政府の人達の誰もが「当事者の顔」になっていき、決断の1つ1つの重みが増していきます。
一般人はスマートフォンで情報共有を始め、(掛け声だけではよく内容が分かりませんでしたが)デモが行われるシーンもあります。
自衛隊等の現場の人々の描かれ方も素晴らしい、最後には意外な組織が協力したりします。これらも現実の日本に生きた我々(つまり観る側)が、
記憶を共有している出来事と言えるでしょう。

しかし、庵野監督はそれでは終わらず、世界の当事者感覚の鋭さというものを完璧に描き切っています。

ゴジラの最初の襲撃の直後に流れた本当に何気ないニュース。
「海外の調査団が来た」

諸外国が世界の現実と自国の利益のバランスを踏まえ、冷酷なまでに適切に出していく決断や決議。

ゴジラによる危機が想像以上だと知った外国の人々の決断の素早さと気持ちの暖かさ。

経済危機や紛争、テロ等、諸外国では痛みとともに、当事者にならざるを得なかった出来事がたくさんあります。
(アメリカはある意味、世界中で「当事者」をしている、と言えるでしょう。問題が色々とありますが)
そうした現実を踏まえたであろう、諸外国の政府や人々の振り幅を持った動きもしっかり描かれています。

では私は「シン・ゴジラでは現実世界にも通じる、日本人の当事者意識や対応力の無さと、諸外国の対応力の高さが描かれた」
というような、一方的な感想を持ったのか。
決してそうではありません。一方的に何かを批判する ような感想では、私自身の「当事者意識」も疑わしくなってしまいます。

映画では、日本の戦争や防衛も絡められていたので敢えて例に出しますが、戦後71年、日本が平和を享受している間に、沖縄では何が起きていたか、
そして今、何が起きているか、日本人で正確に知り、考えている人はどれくらいいるでしょうか。
また、日本の平和と世界の混沌の微妙なバランスの中で、日本をどう守るか、または日本や世界をどう平和にしていくか、最前線で守り、または動き、考え
続けた人々について、私達はどれくらいの事を知っているでしょうか。

色々な立場の違いはあれど、シン・ゴジラゴジラという大惨事が日本にもたらされる想定の元、私自身 が考え続けていた「当事者とは何か」「一体今、私自身は
何の当事者なのか」「周囲に隠れて傷ついている当事者がいるのではないか」という問いをもう一度、自らに突き付けるきっかけになりました。

シン・ゴジラは日本の元々当事者にならざるを得なかった人とそうでない人が描かれ、そうでない人が当事者として成長し、更には世界の人々が当事者になり、
更には「隠されていた痛み」の存在も明らかになる、そういう流れを持っているように、私には思えてなりません。

「....当事者」
「当事者」
「当事者....」

私はこれまで上の言葉を使い過ぎました。それでも私は感想を書く上で「当事者」という言葉を使い続けます 。
当事者がいて、私達自身も当事者である事を知り、それが広がって....シン・ゴジラは人々の営みが広がり、深められながら、1つの「真実」に迫る映画ではないでしょうか。

映画を観た「真実」はそれぞれの人々の胸の中にある、なんて格好つけた事を書きながらも、私なりの「真実」を描いてみたいと思います。

それは、ゴジラ自身が最大の「当事者」ではないか、という事。

初代ゴジラから描かれてきたゴジラ誕生の背景。様々な出来事。そして今回の「シン・ゴジラ」を観て。
壮大な、そして膨大な「当事者」の螺旋状の軌跡の果てに、私は思いました。

何かを隠し、痛めつけ、その上で何も知らずに座っている水 面下で、人智を超えた惨劇が待っているという事。
そして人が生み出したものでも、人智を超えて悲劇をもたらし得るという事。
人類の歴史はその連続であったし、今ほど悲劇が国境を越えやすい時代は無いのかもしれません。

隠されていた「負」が暴かれ、溢れ出し、誰もが「当事者」になり得てしまう時代。

私達は何をするべきか。

家も、ビルも、人々の命や生活も、全てを崩れさせてしまうような悲劇を描いた映画を観て。

私は私なりに、今も考えています。