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「リトル・ガール・ブルー」~ジャニスの先を行こう、彼女が抱えたような孤独と向き合うために~

坂本龍一吉本隆明との対談で、「日本だと本気で音楽を聴くというのは危ない気がして、それを避けるためにアイドルとかが幅広く受け入れられるんじゃないか」という主旨の事を語っていました。

そして吉本隆明は自身の講演で、「誰かに提示したり、話したり説明したりするように使われる言葉が指示表出、ふとした瞬間に出る言葉や1人ごとみたいなものが自己表出であり、自己表出こそが言語の根幹である」というような事を語っていました。

ただ自己表出が言語の根幹だから必ずしも優れているという訳ではないみたいで、訳の分からない1人語りや人に明確に伝える気があるか分からない罵倒といったものがネットを中心に溢れている気はします。
「感情が劣化して、表現ではなく、ヘイトみたいな表出が増えてしまっている」と言ったのは社会学者の宮台真司でした。

ここまでは評論を読んでいただくにあたっての材料というか、下準備のような文章になります。

さて、本題である映画の話に入りましょう。米国の伝説的女性アーティストであるジャニス・ジョプリンのドキュメンタリーですが、ジャニスのパワフルなライブ映像。(声量や動きから、ツェッペリンロバート・プラントを思い出しました)関係者や友人、家族らのインタビュー等、貴重な映像が続きます。
ただ映像に流れる歌詞をチラッと見て思ったのですが、相談する相手がいる事の大切さを説いたり、ポジティブさが説かれたりという歌もあり、米国流の上に上がるための思考法というか、ポジティブな考え方は幅広く根付いているのではないか、なんていう事を推測ですが思いました。確か日本で現在氾濫している自己啓発の数々も源流を辿れば多くは米国だった気がします。

しかし、演奏シーンの力強さに胸を打たれ、ジャニスをもっと聴いてみようと思ったのは収穫でしたが、それはこの映画の要素の半分ですね。
変わり者とされ学校等の集団から外れた青春時代。公民権運動の中で、故郷テキサスを出て行き着いたサンフランシスコで模索した歌手への人生。(ジャニスは差別に反対したり、ゲイバーに入り浸ったりもしていたそうです)
成功してもバンド内で揉め、サンフランシスコから共にやってきたメンバーとは分裂。失われるサンフランシスコという拠点。  新しいバンドでの成功と亀裂、ドラッグやアルコールへの依存。自分を失い求められるイメージに取り込まれてしまう悲劇。そして破滅。
映画のもう半分には、ジャニスの抱えた孤独や悲劇がかなりの密度で描かれていました。

セックスしているように快感だというライブ。しかしライブが終われば客もそれぞれの家に帰り、バンドメンバーも一旦家族の元に帰ります。1人取り残されるジャニスの孤独。そして様々な人間関係の葛藤。
ジャニスの歌は上に書いたような自己啓発(?)的な歌もありますが、感情を増幅させて、高らかに表現したものが多い。そうしたジャニスの自己表出とも言えるような叫びに、ファンも共感したのでしょう。
しかし一方でジャニスは、破滅していく自らも、正解に把握していた節があります。
ジャニスがインタビューに答える時、言葉はまとまっており、的確な内容を話しているように感じました。寧ろ周りのバンドメンバーの方がはしゃいだりしていて幼く見えたくらい。
ただジャニスが語る時、少し表情が陰鬱に見えた気がしましたし、故郷の同窓会に行った時に、誰にも話されない孤独の中でジャニスが語るシーンはなかなかつらいものがありましたね。
また家族の手紙や確か自分のためだけにも文章を残しており、映画の静かな見どころですが、どこか影を感じさせる内容になっています。

ジャニスのライブでの叫びが、必死の自己の叫びだとしたら、アメリカは社会の天井が突き抜けてしまうくらい、自己表出に溢れた社会じゃないか、とも思えます。
最近の大統領選でトランプ氏とクリントン氏の討論が話題になり、質が低いという評価もかなりされていましたが、質の問題だけではないのではないでしょうか。 
トランプをぶん殴ってやりたいと言った俳優、アンチトランプソングを作る著名ミュージシャンたち、何気ない街角や生活の中で政治を語り合う市民達、病んでいるのに天井が破れた先には空が見えていて、閉塞感が無いのが米国社会なのかもしれません。
それだけに公の討論でもネットレベルの表出が溢れ、際限の無さは感じますが。

何というか、普段言いにくい苦しさや不安等の自己表出の着地点を見いだす事ができない中で、ステージだけを幸せとし、後は酒やドラッグで破滅してしまったジャニスの中に、米国社会に限らない、世界中の社会が長く引きずってきた病理を見てしまいます。
押さえられた病理がそのうち爆発してしまう社会。

「あたし達は何かをかくすためにお喋りをしてた。
ずっと
何かを言わないですますためにえんえんと放課後お喋りをしていたのだ」
岡崎京子リバーズ・エッジ』)

社会を覆う巨大な会話不能(ディス・コミュニケーション)の体系と凶悪事件やネット炎上、過激政治家の出現などに現れる「苦しんでいる人々の叫び」。ジャニスは叫びを最上の表現に変えて人々に示した、課題を提示した先駆者と言えるのではないか。

しかし敢えて言いたいのは、「私達はジャニスの苦しみを継ぎながらも、彼女の一歩先を歩いているのではないか」という事です。

マツコ・デラックスは「(沖縄出身の歌手)Coccoは私の中でジャニスを超えた唯一の歌手」と凄い事を言いましたが、そのCocco自身の人生というのは、自らが自らの表現の凄さに殺されないように、繋がりを模索し続けている人生である、と私は考えます。
Coccoのプロジェクトや映画出演等を通した若者達との交流やそこから得られたという気付きに、繋がりを求めた成果が現れているように感じます。詳しくは省きますが。
私から見れば、音楽界も含め、今の表現界は表現のソリッドさを落とさないようにしつつも、孤独にならずに地に足つけて歩いていく方法というのを、不十分ながらも模索している気がします。
破滅していった尾崎豊とか聴くと、今は昔より上手く抵抗しているな、というのを感じます。

日本の場合皮肉にも、坂本龍一が言うような状況(この文章の冒頭参照)が閉塞感をもたらして尾崎豊のような人を苦しめ、逆に今は表現に真剣になりつつも、破滅しないで地に足付けるいい方法を模索するきっかけになっている気はします。
政治もそうなのかもしれません。連合赤軍のようなリンチ事件や内ゲバのような過激な活動の後、「政治に本気になるのは危ない事である」と人々が感じ、それが無関心に繋がっていった面はあると思います。
この前解散したシールズなんかを見ても、いかに人々に受け止めてもらえるかという事が重視されており、地に足を付けていこう、という姿勢をかなり感じました。(2冊くらい関係書籍を読みましたが)

こんな事言っても実感の無い方もいらっしゃるでしょうが、やはり私達は、ジャニスを継ぎながらも、ジャニスより一歩先にいる、という事を、私は繰り返しになりますが言いたいのです。