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たまたま滑り台滑らずに済んでいるだけ(森達也監督「A2」感想)

森達也監督の「A2」を見て来ました。(名古屋市今池のシネマテークオウム真理教を追ったドキュメンタリーです。(1作目の「A」は見た事が無い)
ちょっと古めかしい建物に、飲み屋とかもある中で、上の階が映画館になっており、雰囲気があっていいですね。味のある映画をたくさんやってますし。
(以前遠藤ミチロウさんに舞台挨拶後、サインもらってツーショット撮ってもらったのは貴重な思い出だなあ)

さて、突然ですが映画の感想に入る前に、後で説明で使うだろう用語、「アイロニカルな没入」について説明します。
社会学者、大澤真幸氏が語った言葉ですが「どこかマズいと分かっていても、利益もあるしなかなか止められない。頭で分かってても何となくやり続けてしまう」という感じの意味です。
私が大澤氏の本を読んだ時は、原子力発電推進を例にしていました。「事故が起きたら大惨事だし危険はあるが、そんな高い確率ではないし、経済的利益をもたらす訳だし、簡単に止められないよなあ。推進しちゃえ」てな感じでしょうか。
今でも推進派(維持派)の方の意見にこんなのがありますよね。
「そんな脱原発と言ったって簡単に止めれないだろう。経済もあるし。交通事故が問題だからって、車社会止めるかい?そりゃ混乱するよ社会や経済が」

さて、映画ですが、僕も含めた観客の反応も含め、かなり面白かったです。
サリン事件を起こし数年経ったオウムは、修行施設にあちらこちらの地域を移動しますが、移動先の住民の反対運動にあい、なかなか定着できません。
しかしオウムの施設のすぐ隣に監視小屋を作った住民の方も、時間が経つとともにオウム信者との交流が生まれ、普通に談笑したりするようになる地域もあります。結局はオウムは立ち退くのですが、地域住民が「寂しいねえ」なんてコメントしたりします。
また横浜でオウムと話し合おうとする右翼団体がオウムを監視する警察と言い合う時に主張する事が、口調は乱暴ですがかなりの正論だったりして、意外性があります。地域から追い出してもまた逃げた先でも追い出され、根本的解決にはならないだろうと。
こうした意外性というのはこの映画のポイントの1つですが、意外性のあるシーンで、度々映画館で笑いが起きていたのも凄い。僕も何度も笑いましたが。オウムの映画なのに....

森達也は「マスコミの取り上げないオウムの側面」を撮っている訳で、一方的にオウムに反対する地域住民の主張の弱さを突いたりもする訳ですが、森達也がオウムに少しでも共感してしまっているかというと、そうではない。
森達也の鋭い質問はオウム信者にももちろん向けられるし、河野義行さんのオウムへの発言の鋭さや右翼団体の主張というのは、生半可な世間のオウムへの反発よりも、何倍もの威力を持っています。
そしてそうした森達也や河野さんや右翼団体の姿勢がオウムの本質や問題点をどこまでも深く突いている訳です。
どのような立場であれ深みの無いものはろ過し、最後に真理に近い言葉や主張を残す、森達也監督のドキュメンタリーへの姿勢は徹底しています。

それにしても、私も含め、映画を見ながら笑った観客達は何故笑ったのでしょうか?
記憶が正しければ、意外性のあるオウムの側面や地域住民との交流、右翼団体のシーンで笑いが多かったように感じます。
逆に普通のマスコミや取材でも撮れそうな、ただ一方的にオウムに反対する住民のシーンと言ったものには笑いは起きていません。実際そこまで興味深いものではない。
この映画では、マスコミ批判が色々な人から語られますが、私も含め、意外性のあるシーンで笑った我々は、「世間一般のありきたりな見方」からの解放感を感じ、笑ったのもあるのではないか。

「オウムのやった事は決して許される事ではないが、日本社会の一部な訳で、オウムだけ切り離して叩く普通のやり方も案外根拠ってないよね」

では、私達映画を見ていた観客の大半は社会のどこに位置するのか?
映画に当てはめてみれば、大半の観客はオウムの関係者ではないだろうし、被害者の方やその関係者の方でも無いだろう。オウムに遭遇してしまった地域住民でも無いだろうし、右翼団体とか特別な関係者でも無いだろう。

多分、私達観客は、「どこかで破局の恐れながら、日常にアイロニカルに没入する一般市民」なのではないでしょうか。
普段我々は時に理不尽や嫌な事、競争に晒されながら、嫌でも日常を生きています。日本の労働者の生産性は世界的に見ても低いというデータがあり、実際モチベーションも低い、というデータもあるが、だからと言って、過酷だからとすぐ会社を辞める訳にもいかないだろう。それは学校なども同じです。
経済的安定とか将来の安定とかもあるし、色々問題はあるのは分かるが、辞められない。それこそアイロニカルに没入するしかないのです。
しかしある時境界を越えてしまって、大惨事に巻き込まれる人がいる。嫌々やってた仕事が更に更に過酷になり、過労死したり心身の健康を害する人。プレッシャーなどに耐えてたが、耐えれなくなったり受験競争に敗れ、大きな喪失感を味わう人。アイロニカルなはずが、アイロニカルどころじゃなくなっている。悪い方向への滑り台を滑ってしまったのです。

更に言えば、アイロニカルな没入とやらに成功した人が破局を迎える事もある。オウムは高学歴の人が多いが、日常から離れ、最後は学問を人殺しに使うまでに転落してしまった。現在でも欧州を中心に、イスラム国に共感して参加してしまう人には裕福で高学歴な人が多いのだと言います。

森達也監督は「日本社会の悪いものが吹き出すきっかけとしてオウムの事件があり、今日本社会は更に悪くなっている」と言いました。オウムは今ではかなり分かりやすい悪だから叩きやすいが、登場した同時は、仏教やヨガを取り入れた分かりやすさというか、受け入れやすさみたいなのがあった訳です。
今はどうでしょうか?相模原の障害者施設の事件では、日本全体に障害者への不寛容が広がっているとの問題定義がありましたが、事実だとしたらかなり恐ろしい事です。
ヘイトスピーチに対するカウンターや反対運動が出た時も、私は安心感を覚えましたが、(当事者である在日の方々は更に色々な感情を持っていると思います)それはまだ捨てたものではない(はずの)日本社会への安堵でもある訳です。

「そりゃあでも差別はよくないよ?でもさあ、外国人も障害者も貧乏人もある意味国のお荷物な面もある訳じゃん。ああ、過労?そりゃあブラックはよくないけど、すぐ辞めて、というのもよくないし、生活保護で国のお荷物予備軍臭いよね」

ここまで露骨ではなくても、上のようなアイロニカルな気分が日本を覆い始めていて、いつ悲劇の滑り台を滑るかは分からない訳で、それでも我々はアイロニカルな日常への没入を続けなければいけない訳です。
意外に不安定で根拠の無い「普通の見方」から解放された「笑い」が何を意味していたか、深く考えてみる必要がありそうです。